
森三左衛門可成(もりさんざえもんよしなり)
大栄三年(1523年)生
元亀元年(1570年)九月二十日 没 四十八歳
近江 宇佐山城在番時、浅井、朝倉連合軍と対戦、討死。
森蘭丸の父親
美濃、斉藤氏に仕官していましたが、主を織田氏へと変えました。
嫡男森長可(ながよし)の生年が永禄元年(1558年)であり、信長より「長」の字を貰い受けていることからも、織田へ転仕したのは永禄元年以前と思われます。
当時、政情は駿河の今川義元こそが天下の覇者であるともっぱらの評判でした。
美濃を見限り、織田へまっすぐに走ったとすれば、その訳はいったいなんだったのでしょう。
斉藤氏も織田氏も、四隣を敵に囲まれた危険な那であったことにかわりはないはずです。なぜ、今川、武田ではいけなかったのでしょうか。
転仕したのが天文二十一年(1552年)以前であれば、信長の父、織田信秀の隆盛に魅力を感じたことは十分に考えられるでしょう。
とすれば、可成は織田信秀の目を通して信長を見てきた人物で、その大器であることを十二分に理解していた数少ない幕人であったはずです。
可成は信長より十歳年上ですから、永禄三年には三十七歳です。
このころ既に、戦には達者だったことでしょう。
故に、世に言う「桶狭間の合戦」時に、信長の「胸中に籠もる」にも関わり、どれだけの活躍をしたことか、大変興味深い人物です。
佐藤達志 憶測 筆